ご縁を感じて下さる方へ。
2年前の今頃、私の今の人生を形作る上で欠かせないご縁がありました。
今ではツーショットを何枚撮ったか分からない、NPO法人マギーズ東京で共に共同代表を務める秋山正子さん。
先週、マギーズ東京前にて。
なぜふたりでこんなに笑っているのか意味不明ですが、我ながらいいコンビだと思っています^^
話は戻ること8年前。
健康自慢だった私が青天の霹靂で乳がんになりました。
当時まだ24歳。
がんの知識ゼロだった私は、「がん=死」のイメージを持っていて、目の前真っ暗、絶望して精神的に追いつめられ、変わり果てていく自分が受け入れられずに取り乱し、何度も自宅マンションから飛び降りようとして死の淵を彷徨っていました。
だから、なんとか復職できた後は、本業の傍ら、闘病中に自分が欲しかったものや必要だった情報が今闘病しているがん患者さんに届くように…と自分なりにできることを細々と続けていました。
そんな折、2014年3月に訪れたウィーンでの国際意見交換会で英国発のがんに影響を受ける全ての人が全てのステージで利用できるmaggie's cancer caring centres(マギーズセンター)の存在を知り、「これこそ闘病中にあったらいいなと思い描いていたものだ!」「これまでの活動はここにつながっていたんだ!」とビビビっときて帰国。
ネットに日本語で「マギーズセンター」と入力してみたら、文献もシンポジウムの登壇者にもいつも同じ名前があり、それが、「秋山正子」さんでした。
調べてみると、5年前に英国マギーズセンターの存在を知ってすぐに英国に見に行き、CEOを日本に招致してシンポジウムをしたり…とかなり熱い。
キーパーソンは秋山正子さんだ!と直感した私は、彼女が白十字看護ステーションの所長で、暮らしの保健室の室長だとわかったので、早速暮らしの保健室に電話をしてアポをとって訪ねました。
それが、2014年4月のはじめの出来事だったのでした。
そして、秋山正子さんに会った瞬間そのお人柄に恋に落ち、初めて会ったその日に「一緒にやれば必ずできます!日本に、まずは東京にマギーズセンターを作りましょう!」と持ちかけて、まさに「ビビビ婚」。
その後すぐに(彼女を取り上げた「NHKのプロフェッショナル仕事の流儀」などを見て)知るのですが、彼女は人柄が良いだけではなく、看護の世界で知らない人はいない「市ヶ谷のマザーテレサ」の異名を持つ名実共に素晴らしいプロフェッショナルで、マギーズ東京のプロジェクトを立ち上げる唯一無二のパートナーだったのでした。
(どうでもいいけど、このご縁を活かす直感力とスピード感、恋愛にも応用できたらいいのにと願ってやみません…が、そっち方面は圧倒的に苦手です(((o(*゚▽゚*)o))))
そうして翌月お互いの仲間を誘って「マギーズ東京プロジェクト」が開始。
1年後の2015年4月に「NPO法人マギーズ東京」になりました。
ちなみに、マギーズセンターを知った当時友人に説明するためによくシェアしていた記事は、コミュニティーデザイナーの山崎亮さんが書かれた記事でした。
そんな山崎亮さんにも、NPO法人マギーズ東京設立時から理事をしていただいています。
闘病からプロジェクト発足、そしてクラウドファンディング開始まで(2014年4月〜2014年9月)の動画ダイジェストがこちら。
そして、今月NPO法人マギーズ東京設立から1周年を迎え、クラウドファンディングで2200万円ものご支援をいただいたり、土地を東京五輪後まで無償提供いただけることになったり、さらにご寄付をいただいたり、様々な形で参加してくださる方がいたり…
クラウドファンディング終了からNPO法人発足、建築計画、土地内定まで(2014年11月〜2015年6月)の動画ダイジェスト。
本当に多くの方々の力が合わさり、センターは完成目前のところまできています。
先週は、塗装前の壁にマギーズ東京への思いを描きました!
できあがったのは、ありがとうの木。
地鎮祭、センター内覧、塗装前のメッセージ描きまで(2016年1月〜4月)の動画ダイジェスト。
その後、みんなで壁をシラス壁に塗りました!
でもね。
外から見るとものすごいスピード感でものすごくうまくいっているように見えるようですが、実際は自転車操業状態でひいひい言いながら、(でも楽しみながら)こいでいます。
そして、本当の勝負はマギーズ東京がオープンしてからで、今月末からは英国マギーズセンターでの研修が始まったり、中身の濃度を高めていきます。
と同時に、持続的に運営をしていくための資金集めが本当に大きな課題としてのしかかってきています。
「日本には欧米みたいな寄付文化がないから無理だよ!」を言われ続け、また私は寄付を下さいとお願いするのがとっても苦手なのですが、色々なモデルを見習いながら楽しくご寄付をいただいて、社会に必要とされるセンターにみんなで育てていけたらと思っています。
そこで、きたる5月13日(金)19時から、東京・白金でチャリティーパーティーを行います。
お申し込みは、こちらから!!
https://ssl.form-mailer.jp/fms/84befd37429639
会場となる結婚式場の八芳園さんの多大なるご協力のもと、楽しく美味しいお食事を原価でご提供いただいて、会費の8割近くがマギーズ東京の運営費としてのご寄付になります。
今まさにプロボノのイベントチームが一生懸命中身を詰めてくれていて、理事の先生方や応援してくださっている方々含めマギーズ東京ファミリーが年に一度唯一集合する場で、パーティー前日に英国研修から帰国(私はその一週間前に帰国)する秋山正子さん御一行のほやほやの報告もあります。
マギーズ東京オープン前から一緒に育てる仲間になっていただけ、サポート側としてだけでなく、いつか家族や自分が必要となることがあるかもしれません。
参加費2万円は高いと思われる方も多いと思うし、正直、私にとってもハードルが高くて告知するのもなんだか悪いなって感じますが、それでもご縁を感じてくださる方、応援しよう、仲間になろうと思ってくださる方がいましたら是非、よろしくお願いいたします。
去年のチャリティーパーティの集合写真です。
パーティーの中ではチャリティーオークションも行われる予定で、「パーティーには行けないけれどこんな商品提供できますよ!」というものがある方、是非info@maggiestokyo.org (私も見ています)までご連絡ください。
また、一般のご寄付も、NPO法人の寄付会員も、引き続き大大大募集中です。
詳しくはこちらのHPでご確認いただけますと幸いです。
写真は両親と会社の先輩と撮ったものですが、私は今月から11年目になる本業の記者としてではなく、NPO法人マギーズ東京の共同代表として初めてご招待いただきました。
この1年、政府の一億総活躍の会議や安倍昭恵夫人主催の勉強会、議員連盟などでマギーズ東京についてご説明させていただく機会があったからだと思います。
もしもがんになっていなかったら、マギーズセンターを知らなかったら、秋山正子さんを訪ねてなかったら、決してなかっただろうご縁が今につながり、これからどんなご縁があるのか、とても楽しみです。
マギーズ東京にご縁を感じて輪に飛び込んできてくださる方!(と同時に、私にご縁を感じて飛び込んできてくれるお婿さん候補も…!笑)お待ちしています^ ^
だって、「山下弘子」だから。
このブログも気付けば最後の更新から1ヶ月半も経っていて、パスワードさえ忘れていました・・・!
実は、昨日から明日まで、大阪にいます。
ご飯の約束や会議や打ち合わせを急遽欠席し、またリスケしていただいた皆様、申し訳ありません。
大切な妹分の山下弘子ちゃんが今日から入院し、明日緊急で動中塞栓術という治療をすることになったのです。
病院近くのホテルに帰ってきたものの、うまく眠れず、久しぶりのブログ更新。
でもね、安心してください!
当の本人はいつものかわいいこの笑顔( ´ ▽ ` )ノ
まるで妹のようですが・・・
弘子ちゃんと出会ったのは、おととしの夏。
友人から「この子知ってる?美穂ちゃんと似ていて気が合いそう!」と、弘子ちゃんのブログのURLが送られてきたことがきっかけでした。
そこにのっていたのは、母校での講演の原稿。
http://ameblo.jp/hiroko2929/entry-11775303722.html
肝臓に19センチのがん、「余命半年」宣告、肺転移・・・
そんな中で、綴られていたのは「全てのことに意味がある」とか「ありがとう」の言葉たち。
私の闘病中には、とてもそんな風に思えなかった。
この過酷な状況の中で、どうしてそんな風に考えられるのだろう。
その理由が知りたくて、早速アメブロにメッセージをして、お返事がきた翌日はお休みの土曜日だったため、全て予定を変更して始発の新幹線に乗って大阪に向かったのでした。
今考えるととても失礼ながら、「はじめまして」のシーンからなんとなく直感的にデジカムをまわし、それでできたのが去年の特番です。
http://www.ntv.co.jp/realtv/onair/20150704.html
出会いから2年弱。
弘子ちゃんと出会って本当に人生観が変わりました。
「美穂さん、そんなに仕事ばかりしていて、本当に幸せなの?」
「美穂さん、もっと自分に正直に自由に生きていいんだよ」
隣でそうささやかれ続け、実際に大分自分に正直に、自由になってきた実感があります(笑)
去年3月、宮古島にて。
そして、何より学ばせてもらっているのは、弘子ちゃんの芯からの強さと、心からの感謝の気持ち。
もうできる標準治療がなくなって、最後の砦のはずだった治験も効かなくなり、腫瘍が気管支を防ぎ始めて咳と血痰が止まらない…
そう連絡をもらった翌日、私はショックで起き上がれず、出勤できませんでした。
命の問題を目の前に、あまりに無力な自分が情けなくて悔しくて、もぬけの殻でした。
でも、本人はあっという間に涙をぬぐってリサーチを始め、たくさんの人の協力でたった1週間で明日の治療への道を開拓して、くったくのない笑顔を取り戻して。
そして、口を開けば、「ありがとう」を言い、いつも今まで助けてくれた先生や、友人知人の名前をぜーんぶ列挙して、あの人にもあの人にもあの人にも恩返ししないといけないんだ!って話しています。
何度も立ち合っている検査や診察。
私だったらとっくに崩れ落ちているだろうところを、しっかり前を見て受け止める弘子ちゃんは、9つも下なのに、もう本当にかっこよくて、私はいつも目に涙を溜めながら見惚れています。
もしまた自分が病に冒されるときがあったら、こんな風にありたい。
あきらめない限り、道は開ける。
弘子ちゃんは、この難しい状況に立ち向かいながらずっとそれを体現して社会にみせ続けてくれる使命を持って生まれてきたんだと、私は思います。
そして、私にはそんな弘子ちゃんに光をあてる役目があると、勝手に思っています。
(弘子ちゃんの物語第5弾はNEWS ZEROにて今月中に、第6弾はnews every.にて来月にも特集したいと考えています!)
今年2月、友人の結婚式にて。
明日も、その後も、きっと大丈夫。
だって、「山下弘子」だから。
これからも一緒に山越え谷越え生きていこうね♡
去年8月、富士山頂にて。
※下記、術後に追記。
見ての通り、無事終了!
術後3時間ですっかり元どおりご飯を食べている弘子ちゃんを見て安心し、今夜の最終で帰京します^ ^
【一緒に種を蒔きませんか?】NPO法人maggie's tokyoプロボノ(ボランティア)・学生インターン募集!!
※東京新聞より(2016年1月12日朝刊)
「緩和ケア」への誤解とマギーズ。
最後だとわかっていたから。
心の底から慕い、信頼し、尊敬してやまない恩師とお別れをしてきました。
先生は、私が9年前、記者になって初めて「朝まわり」「夜まわり」(「朝まわり」は朝その方が出てくるところを、「夜まわり」は夜その方が帰ってくるところを、ご自宅の前で待っていてお話をさせてもらうこと)に通った相手でした。
社会に出て間もない、何者でもない私にとって、人生の大先輩、しかも数々の功績を残されて社会の中心で重要な役割を担っている先生のお話を伺いに行くということは、それだけで大きな出来事。
夜通し待って帰ってこなかった日も、私の姿を見つけても一言も話さないで中に入ってしまう日もあったけど、そんな日々の中で少しずつ挨拶をしてくれるようになり、立ち止まって話してくれるようになり、その時間が少しずつ長くなっていき…
「今日もいるのかあ!」という照れたような面食らったような反応がかわいらしくて、知らない世界のお話を伺うのが楽しくて、少しずつ信頼していただけているのがわかって嬉しくて、当時23、24歳だった私は週に3、4回はバカの一つ覚えみたいに(他のご自宅とはしごしながら)先生のところへ通ったものでした。
私がご自宅の前で疲れ果てて立ったまま寝てしまっていたら、「ほらほらボクが帰ってきた事に気づかなかったらいつまでも帰れないでしょうよ」と起こしてくれた日のこと、「年頃の娘が私のところなんて通っていないでデートに行きなさい!」と心配してくれた日のこと。
昨日のように思い出されます。
先生は、どこからどう見てもものすごく偉いのに、おごることなくとってもチャーミングで、懐が深く温かく、私は人としての立ち振る舞いから話の聞き方まで、本当にたくさんのことを教えていただきました。
そして、「記者」という肩書きがあるだけの何の実績もない自分であっても、真心を込めて真摯に向き合い続ければ、たとえ相手がどんなにすごい人でも偉い人でも通じることができるし、「人は肩書きの前にみんな人なんだ」という、その後の記者人生の中で神髄となる大切な信念みたいなものを、先生から教えていただきました。
(それでこんな風な突撃型の記者になってしまいました。もちろんその後、どんなに真心込めても接触さえ叶わなかった相手も少なからずいますが…)
そうやって先生のところに通ってお話を聞くこと半年あまり、私に乳がんが見つかり、すぐに「しばらく通えなくなります…」とご挨拶に行ったら、急に医師として患者さんに向ける眼差しに切り替わり、本当に親身になって相談に乗って下さいました。
それから8ヶ月間の休職中も、何度も気にかけてご連絡を下さり、復帰後、私が別の担当になって先生の夜回りに伺えなくなった後も、仕事でも何度もありがたいご連絡をいただいたし、学会等で私の主治医を見つけると先生が一目散で駆け寄ってきては、私の容態を気にして下さっていたそうです。
そんな先生が2年余前に膵臓がんを患われ、去年一時退院された際に訪ねたのが最後となってしまいました。
このときも、ご自身の体調が不安定な中、私のことばかり気にしてくれて、私の近況についてたくさん質問しては本当に嬉しそうに聞いてくれたのでした。
入院中の弱った姿は誰にも見せたくない、とおっしゃっていたので、この日、私はきっと今日が最後になるかもしれないとわかっていて、楽しくお話して、先生の手を握ってお別れをした後、号泣しながら仕事に戻りました。
そして先週、先生の訃報を聞いてから体調が優れず、今週に入って39度以上の熱を出して寝込んでしまっていましたが、母親に付き添ってもらって告別式に参列してきました。
会場に入りきれない参列者の方々を見て、蒼々たる方々の弔辞を聞いて、私はすごくかわいがってもらったと自負していたけれど、きっと参列している人みんながそれぞれそう思っているのだろうなと思いながら、神様みたいに優しくて穏やかな笑顔で微笑む先生に、誰にも負けないくらい、心からのありがとうを言って帰ってきました。
この仕事をしていると、毎日のように人の死にふれるし、社外活動でも、死の存在を避けては通れません。
でも、周りの誰かが亡くなったときに、後悔しなかったことなんて一度もありません。
名残惜しくないことなんてあるはずありません。
仕事が落ち着いたらお見舞いに行こうと思っていた矢先に…ということも何度も経験して、仕事って、私の人生の優先順位って、一体なんなんだろうと自己嫌悪して自暴自棄になりそうになったこともあります。
先生とも、できればもう一度お会いしたかったし、もっともっとお話したかったし、聞きたいことも山ほどあったし、次の機会に渡そうと買っていたお見舞いのギフトもまだ私の部屋にあるし、とにかく全く恩返ししきれていません。
目を輝かせて「わぁすごいね、楽しみだ!!全力で応援するよ!!」と言って下さっていたマギーズ東京の完成ももう間近だったのに…
だけど、あの日、一時退院できたと聞いて仕事を抜けさせてもらって訪ねられたあの時間は、きっと最後だとわかっていたからこそ、慈しみ深く、貴重で、大切で、宝物のような時間でした。
人生を生きていく中で本当にたくさんのことを教えていただいた先生、本当にどうもありがとうございました。
心からご冥福をお祈りいたします。